貧富の差が激しくなり、格差社会と呼ばれるようになって日本は長い。
最低賃金を1500円にアップするデモも行われるが、最低賃金が1500円になったからといって裕福になるわけではない。もちろん嬉しいが、人並みの生活ができるギリギリの所だろう。
僕が住んでいる沖縄は全国でも最低の最低賃金県だ。しかも、最低賃金の未払い率も全国最悪となっている貧困中の貧困の島が沖縄。
はっきりいって沖縄で豊かに暮らすのは難しい。親戚一同で援助しあって何とかなっている状態だ。なので親戚付き合いがなかったり社会から見放されると再貧困女子でも書かれたような絶望的な状況に陥ってしまう。
本書は夜の街に働く未成年の話をたんたんと記録していった本である。
それは、「かわいそう」でも、「たくましい」でもない。この本に登場する女性たちは、それぞれの人生のなかの、わずかな、どうしようもない選択肢のなかから、必死で最善を選んでいる。それは私たち他人にとっては、不利な道を自分で選んでいるようにしか見えないかもしれない。
上間陽子は診断しない。ただ話を聞く。今度は、私たちが上間陽子の話を聞く番だ。この街の、この国の夜は、こんなに暗い。
――岸政彦(社会学者)
沖縄の女性たちが暴力を受け、そこから逃げて、自分の居場所をつくりあげていくまでの記録。
シングルマザーを取り巻く環境に絶望を感じ、筆者がいうとおり「不利な道を自分で選んでいるようにしか見えない」少女達にイラつきも感じてしまう。それほどまでにリアルな沖縄の現状が映し出された本はみんなに読んでほしい一冊だ。必読書レベル。
めちゃくちゃ暗い気持ちになるし、嫌な気分になるが読んでほしいので何回かにわけて感想を書きたい。
親と恋人とシングルマザー
本は作者の生い立ちから始まるが、作者:上間陽子氏の友達たちがいきなりハードル高い。僕の生まれてきた世界とは違いすぎる環境に意識が遠くなる。
加奈は初めてシンナーを吸ったあと、やっぱり私の家にやってきて、その日のことを私に話した。一緒にシンナーを吸った先輩が、「お母さん、お母さん」って泣いたんだよ。ずっとずっと、泣いていた。
シンナーを吸いながら、「お母さん、お母さん」って泣いてたとかキツすぎる。
僕はヤンキーではなかったのでシンナーを吸ったことがないが、周りはもしかしたら吸っていたのかもしれない。上間陽子氏は友達が大変な目にあった過去を思い出しながら今回の取材に臨んでいた。
本にでてくる少女達は家庭環境が複雑で親と上手くいってない。
親と上手くいってないので家が居場所ではなくなる。ひたすら辛い環境にいるので家出する。家出するのはいいがお金がないので働かないと行けない。
その働き先が早くお金を稼げる夜の街になる。
夜の街で働く未成年の少女は驚くほど多い。そして働く少女の大半がシングルマザーという過酷すぎる状況だ。
優歌には以前、子どもがいた。一六歳で妊娠して結婚し、一七歳で男の子をひとり産んだのだという。子どもが生まれたあと、つくったご飯を目の前で夫にゴミ箱に捨てられ、夫の仕事着を洗うと舌打ちをされ最初から洗濯のやり直しをさせられる日々のなかで、あるとき、包丁を取り出して夫に斬りかかろうとして離婚された
沖縄ではシングルマザー世帯の出現率が全国平均の約2倍ある。避妊しない男が多すぎるし、暴力を平気で振るう状況がある。
「優歌、こういうやつはさ、DVとかやりがちだから、私、顔見せておこうね」と優歌にいう。「うーん」と優歌はいい、「あいつ、前の妻、二回、病院送りにしているよ」とつぶやいた。
少女達が好きになった男は基本的に暴力を働き、また働きはしない。絵に描いたような最悪の男を好きになる。そして妊娠し子供を生む。なぜこんな男を好きになるのか?と考えても仕方がない。だって最初は優しいのだから。こういった男は最初は優しいが、付き合ったり結婚したりすると手のひらを返してDVに走る。男が完全に悪い。
暴力が当たり前の家庭で育ってしまうと、暴力がない生活が「普通の生活」ではなく暴力を引き寄せてしまう可能性もある。
毒になる親では、暴力を振るう親から受けた暴力は「なんのために殴られたのか」「なんで自分を殴るのか」を考え暴力行為に意味を見出す。
──男女じゃなくて、しーじゃーが先なんだ! そう。「どっちが先輩なのか?」ってかんじではじまって。 沖縄の非行少年たちには、先輩を絶対とみなす「しーじゃー・うっとう(=先輩と後輩)」関係の文化がある。そのため、先輩から金銭を奪われ、ひどい暴行を受けても、後輩の多くはそれを大人に訴えることをしない。そして学年が変わり自分が先輩になった子たちは、今度は自分たちより下の後輩たちに暴力をふるう。 翼の中学校の教師たちもまた、翼たちの面倒を見て大切にする一方で、翼たちに体罰をふるっていた。暴力が常態化するなかに育つ子どもたちは、成長すると自分の恋人や家族に対しても、暴力をふるうことを当然だと思うようになる。なぐられるほうもまた、大切にされているから自分は暴力をふるわれていると思う。
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だって親がただ意味もなく殴るはずがない。自分のために殴ったんだと解釈しないと殴る意味がわからないからだ。
何度か優歌を外に連れ出して、龍輝とは別れたほうがいいんじゃないかと私は話した。「でも、明日は笑ってくれるかもしれない」と優歌はいい、「今日笑わなかったやつは、明日も笑わないよ」と私はいい、「でも」ともう一度優歌はいい、私たちのやりとりは何度も行き来した。
複雑な家庭環境で育った少女たちは、病院送りしている男と知っていながら付き合い続ける理由があるのかもしれない。当然こういったDV男たちは慰謝料も養育費も払わない。最低中の最低なのだ。
また、子供を産んでもなんとかなるさ~的な考えがどこか沖縄にはある。
家族や親戚と仲が良好ならいいが、そうでない家族の無縁状態にある人は地獄だ。
アベノミクスで好景気!!とか言ってるが、未成年の少女が誰からも援助されずに子供を育てる状況に景気が良くなってると言えるのだろうか?
沖縄で昼に働いて月20万貰えるのは珍しい。手取りで10万行くかのギリギリの生活を強いられる。その為昼よりは稼げる夜で働く率が多いのだ。
キャバ嬢の仕事が、日本の女子中高生のなりたい職業にランクインするようになって久しい。若い女性が層として貧困に陥るなか、華やかなドレスを身にまとい、男性客とのトークでお金を得るキャバ嬢が、若い女性たちの憧れの職業となるのもよくわかる。しかし沖縄のキャバクラ店では、とにかく子どもと生活するためにこの仕事をはじめたという若いシングルマザーたちが働いている。この調査でお会いしたシングルマザー全員が、自分のパートナーであり、子どもの父親でもある男性との関係を解消したあと、慰謝料も養育費も一銭ももらえず、単身で子どもを育てることを強いられていた
それでも必死に働く少女たちだが、妊娠中は流石に働けない。みかねて作者がシングルマザーの少女と一緒に生活保護を申請しに行く場面がある。
沖縄に帰ってからすぐに優歌と会って、生活保護の手続きを相談した。当初、優歌はそれをかたくなに拒否した。お店に出ているほうが気分もマシだから働く、大丈夫。それに自分のこと、知らないひとに話せない。 優歌の身体がいよいよきつくなったときに、優歌を説得して一度だけ、市役所の生活保護の担当部署に出かけたことがある。優歌の現在の状況と、家に暴力をふるうきょうだいがいることを聞いた保護課の職員は、「世帯分離ができていないので、生活保護の対象にはなりません」と話し、生活保護の申請用紙すら渡そうとしなかった。「八カ月の妊婦に働けということですか」と私が声を荒らげると、優歌が泣き出してしまい、窓口を退いた。そのあと、社協の窓口に行って、貸付かシェルターに入ることはできないか相談したが、「貸付は難しいです」「まだなぐられていないのでシェルターはムリです」といわれた。
家族からも拒否され制度からも拒否される。少女が一体何をしたというのか?
家に帰れば殴られて金も取られる。家族からも冷たくされ頼れない。嫌々ながら行った役所には冷たい対応を取られる。
いったい何が起こってるのか理解するのに時間がかかる。
これは本当の話なのか?と自分の中で嘘であってほしいと願い続けるが、どうしようもないリアルの話にどんよりとした影が頭の中を支配する。
再貧困女子を読んだときよりもしんどい気持ちになった。
調査で出会った女性たちの半数以上は、恋人や家族から頻繁に暴行を受けた過去をもっていたが、最終的に彼女たちが受けた暴行は、拳で顔の原形をとどめないほどなぐられる、おなかを蹴られて吐きながら意識を失うといった「病院送りされる」レベルにまで至っていた。
こんなに暴力を振るう人がいるのか?しかも同じ沖縄の男が。なんでよ!?意味がわからん!!と読みながらイライラと悲しみが同時に襲ってくる。
襲ってくるがどこまでも淡々と記録は進み少女たちの話に引き込まれる。
少女たちは目も当てられない悲惨な状況になりながらも、必死に逃げ自分の居場所を作り生きていく。そこには南国沖縄リゾートの影の形もない。
あるのは圧倒的な貧困だけだ。
本の中では米軍基地のフェンスや、基地に囲まれた街の話が多く出る。
沖縄は米軍基地でお金を沢山もらっている!って意見があるが、その金はどこにいっているのだろう?沖縄の政治家達が私腹を肥やしているのか?一部の金持ちだけが恩恵を受けているのか?いつも思う。いつも。
もしも米軍基地を置いている代わりに多額のお金が入るのならこの子達に使ってほしい。子どもたちに。頼む。政治家のみなさんお願いします。
また、この本を一人でも多く読んで広めて問題提起できればと思います。
多くのひとは、膝ががくがくと震えるような気持ちでそこから逃げ出したひとの気持ちがわからない。そして、そこからはじまる自分を否定する日々がわからない。だからこそ私たちは、暴力を受けたひとのそばに立たなくてはならない。そうでなければ、支援は続けられない。